人間や他の動植物が生きているのと同じように、地球や太陽またはそのほかの惑星、あるいは宇宙も生きていて知的な存在であったらどうだろう。
現代人は生活の基盤に政治経済があり言語によるコミュニケーションシステムがあり科学により人間だけの世界を構築しているが、そうした人間だけの世界は自然という基盤がなければ成り立たないし、その自然も地球がなければ成り立たない。
さらに飛躍させると地球は太陽と太陽系がなければ成り立たないし、太陽系も天の川銀河がなければなりたたない。その天の川銀河もいまだ膨張を続けているという巨大すぎる宇宙とその宇宙にあるすべてがなければ成り立たない。マクロだ。
マクロだけではない。小さくしたっていい。人間は細胞で構成されているが、その細胞は分子で構成されているし、分子は原子で構成されており、原子は陽子、中性子、電子で構成されている。一般教養はこのへんが限界っぽいが、それより小さな世界だっておそらくあるだろう。
ちいさな粒々たちも人間に個性があるのとおなじように個性があるかも知れない、振動したり回転したり、なんらかの手段で交信しているかもしれない。ミクロだ。
何一つ欠けても、我々人間は存在できないようにこの三次元空間に定置されているが、この地球という惑星になんのために生み出されたのだろう。
人間や他の動植物が生きているのと同じように、宇宙も生きていて知的な存在であったらどうだろう。
深海に生息する魚類は、海のことをなんでも知っている達人のようにイメージされるが、実は海にいることすら知らない。なぜなら深い海の底から出たことがないからだ。比べようがないのである。
同じように人間は宇宙の外側をしらない。なぜなら宇宙から出たことがないからだ。
はたして、宇宙から出られる時が来るのだろうか?
宇宙の外へ出たらどうなるのだろう?それは誰にもわからないし、実は気づかれぬ、あるいは気づけぬうちに違う宇宙空間にすっとばされているのかもしれない。
わたくし個人としては、宇宙の外へ出ることは人間の意識の終焉なのかもしれない気がする。人間は死ぬとき自分自身が死んだことを知覚できないだろう。なぜなら、死んだら意識が消失するからであり、意識がない状態では死んだことを知的に把握できないからである。
どうように、宇宙の外側へ人間が出れたとしたら、それは人間と人間の存在に関連する上記したすべての宇宙のものたちの意識の役割の消失を意味している気がするのだ。意識の終焉である。人間の役割はここで終了なのだ。言葉にしたら無ではなくなるのだが、<無>になるかもしれないし、まったく知らない得体のしれない何かになるかもしれないし、同じことが再スタートするかもしれない。
人間や他の動植物が生きているのと同じように、宇宙も生きていて知的な存在であったらどうだろう。人間は子孫を残し繁栄している。それは生命ある存在としての摂理であるが、滅びないためのエゴかもしれない。同じように、宇宙も知的な生命体であるとするならば子孫を残したいだろう。宇宙も子孫、別の宇宙を生み出したいのだ。宇宙のエゴである。
宇宙は別の宇宙を作りたがる。そのために人間を創造する必要があったのかもしれない。そしてその人間は宇宙に存在する全てとつながっている。本来、すべてなのだ。<総体>である。敵も味方もない。すべてなのだ。
自我、自意識なんてものは、自分という言葉と、その概念がなければなりたたない。しかし、本来そんなものはどこにもなかったはずだ。
自意識なんてないのである。自分で考えて行動したりしているように見えても、実は自分なんて存在していないし、宇宙のエゴのなせるわざなのかもしれない。
あなたは一体何のために存在していますか?
宇宙のエゴ・・・宇宙は別の宇宙を生み出すために人間を創造した。
のかもしれない。