正しい人類など存在しない 全ての人間は矛盾を抱えて生きている

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極端に言ってしまうと「人間は地球を破壊するガン細胞であり、正しい人類など存在しない」と思えてしまう。

それは人間の世界に意味や価値など存在しない、ガイアニズム、虚無主義的な思考かもしれません。

人間は生命ある動物でありながら、お金や科学、言語による思考や記憶など、「自然の摂理に反したエゴ」も同時に持ち合わせています。

「自他の区別のない、自然と一体に生きる、生命ある動物的な野性」を有しているが、それとは対極の「明晰な自意識のエゴによる人間的な理性」も抱えています。

人間は「野性の感覚」と「理性の思考」、それら両極を同時に引き受け、強烈に引き裂かれている。矛盾を孕んでいない人類はただのひとりもいないのです。

わたしは、「みんなと一緒にしていなさい」という、家庭環境、教育を受けてきて、それに窮屈さを感じていました。

他者とコミュニケーションをとっていても、「何か違う、本当はそうじゃない」という、「動物的な野性の感覚」が常に存在していて、心の底に「得体の知れない何か」が渦巻き、幻惑的な叫び声をあげているかのようです。

なので、「みんなと一緒」でいることの違和感が拭えないので、「みんなと一緒」ということに執着せず、反対に「みんなから離れよう」という方向性が強くなりました。

ある意味「みんなと一緒」というのは、幻想であると思いますが、幻想ではないとも思います。

「幻想である」と思えるのは、言語による思考やコミュニケーションは、各々のイメージのズレがあるからです。多かれ少なかれ完全に一致することはありません。

総ての人類は生まれた時間帯、育った環境、親や学校から受けた観念、価値観はバラバラで、そのバラバラな経験を元に言語のイメージを行います。みんなバラバラなので一致することはありません。

「幻想ではない」と思えるのは、上記の幻想的コミュニケーション、社会構築の世界に生きながらも、「生命ある野性の動物的感覚」が総ての人類の心の底に眠っているからです。

動物的な自然の摂理に従えば、個性や人格、社会的立場や地位などは、明晰な自意識が発達した人間のエゴによる幻想、観念に過ぎません。

しかしながら、元々それらは存在していませんでした。みんなまっさらな生きものであり、生命であり、自分と他人の区別すら確立していない存在だったのです。

総ての人類は、何もない、自分や他人もないゼロ、まっさらな生きものであり、生命であったので、その意味では「みんなと一緒は幻想ではない」と思うのです。

したがって、「みんなと一緒」というのは、幻想でありながらも、幻想ではないのです。

元々、人間は自分も他人もないゼロであった。自然と一体である野性動物も、生まれたばかりの赤ん坊も「自分」という、言語や概念はありません。

意識が明晰になるにつれ、いつの間にか、自と他、生と死、愛と憎しみ、善と悪、それら二元論の観念が発達しました。

野性から理性が芽生え、両者を抱えるに至り、全人類どちらでもない宙吊り状態、中途半端な矛盾、逃れられない、解決することのできない存在となりました。矛盾を抱えていない、正しい人間など存在しないのです。

現代人の出発点は、お金があって当たり前、科学は絶対であるというのが前提です。人類の一大事業である産業の発展のみが正しさであり、自然の摂理に即した野性の感覚は最初から存在しない、あるいは、正しくないものであるかのように扱われています。

総ての人類は生命ある動物でありながら、そこから離れようとする巨大な矛盾を抱えています。人間とは「人の姿でいる期間」です。その間、正しい姿の人間など一人もいません。にもかかわらず、誰かに悪のレッテルを貼り付け、否定し、自己を正当化します。その行動様式は、人類総出の流行のようです。わたしは、自己保身なしで自らを言説できる人間に、ただの一人も出会ったことがありません。

「正しい人間などいない」と考えるようにすれば、人格を否定されるようなことがあっても、その人格否定は、正しい判断ではありません。

本来、正しいも間違いもない、善と悪もない、ゼロの世界なんだと割り切り、「正しい人類など存在しない、全ての人間は矛盾を抱えている」と、心の片隅に据えておけば、不安や恐怖は和らいでいくのかもしれません。